万寧市万城鎮 月塘村

       

 万寧県政協文史弁公室編『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1995年7月) には、日本軍は、1945年5月2日未明、万寧県城から3キロ南の月塘村に侵入し、村人286人を殺した、 と書かれている。



月のかたちをしている月塘
  向かって右に月塘村がある
朱進春さん
 朱進春さんは、日本刀で8か所傷つけられたが、生き残ることができた。
「月塘村惨案」の日本政府の責任を追及する訴訟を起こしたいと、朱進春さんは言った。
朱進春さんの傷跡
 

朱学平さん(1933年生)
日本軍が襲撃したのむかしの家の跡を示す朱学平さん
朱学平さん
  「朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。 10人家族のうち、わたしだけが生き残った。父、母、兄2人、姉、叔母2人、いとこ2人、 そして6歳だった妹の朱彩蓮が殺された。
 わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。こわかった。血だらけの妹を抱いて逃げた。 途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。 村はずれに隠れた。妹は瀕死だったが、3日ほど生きていた。  半月ほどたって家に戻ってみたら家は焼かれ、遺体も火にあっていた。  骨になりきっておらず、くさっていた。まもなく、偽軍や漢奸が来て、遺体を近くに運んで埋めた。  父朱開陵は52歳、母呉洋尾は50歳だった。
 日本軍が負けていなくなってから、その場所を掘って遺骨を探した。  なんども探したが見つからなかった。焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う」。    
朱学平さんの向かいの家の土台石。その家では7人家族全員が殺されたという
  

自宅の中庭で話す朱建華さん(1944年生)
 朱建華(ジュ・ジェンホァ Zhu-Jianhua)さんは、当時、生後8か月で、お母さんが抱いてかばってくれたそうです。 お母さんも朱建華さんも刺されながらも命を奪われませんでしたが、4歳の兄は刺され、即死したそうです。
 このとき、叔父さん4人と、叔母さん2人も殺されました。その叔父さんの1人は、日本刀で腹を刺され、のどが渇いて水を飲んだら、腸がとびだしたそうです。
日本軍が襲った家の跡で証言する朱光清さん(1934年生)
 朱光清(ジュ・グァンチン Zhu-Guangqing)さんの家を日本軍が襲ったとき、まだ、陽はのぼっていなかったといいます。 その家のあった場所で、朱光清さんは、
 「とつぜん日本兵が家に入ってきたとき、わたしは母といっしょだった。 お辞儀をしている母を日本兵は日本刀で切った。倒れた母を日本兵はなんども刺して殺した。
 わたしは、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびでた。手でおさえて逃げるとき、右足を切りつけられた。血がいつまでも止まらなかった。日本刀で5か所切られていた。 殺されてとき母は、43歳だった。父は日本軍がくる前に死んでいたので、両親がいなくなった」 と話しました。
朱進春さん(1937年生)
 朱進春(ジュ・ジンチュン Zhu-Jinchun)さんは、日本刀で8か所傷つけられましたが、 生き残ることができました。
 
        

朱学超さん(当時3か月)
 朱学超(ジュ・シュェチャォ Zhu-Xuechao)さんは、下腹部を刺され、 睾丸をひとつ切り取られたそうです。
 朱学超さんは、そのとき、祖父の朱鴻里(ジュ・ホンリ Zhu-Hongli)さん、 父の朱開 輝(ジュ・カイホェイ Zhu-Kaihui)さん、兄の朱学金(ジュ・シュェジン Zhu-Xuejin)さん、 姉の朱桂二(ジュ・グォェイアル Zhu-Guier)さんと朱桂三(ジュ・グォェイサン Zhu-Guisan)さんを失いました。 祖父は67歳、父は44歳、兄は8歳、姉は5歳と3歳だったそうです。
祖母と3番目の伯母が殺された家の跡で話す朱秀容さん(1936年生)
 朱秀容(ジュ・シュゥロン Zhu-Xiurong)さんは、  「あの日、日本軍は、祖母と3番目の伯母と、わたしと、もう一人の4人をつかまえ、銃をつきつけて並ばせ、 お辞儀をさせた。日本軍は、ひざまずいた祖母の首を切った。3番目の伯母が殺される瞬間、わたしは逃げた。
 隣りの家との間の細い隙間をとおりぬけて走った。こわくて、どこまでも逃げた。
 山に入りしばらく家に戻らなかった。食べるものも着るものもなかった。 当時、万寧一帯は大飢饉だった。飢え死にした人がたくさんいた。
 まもなく日本軍が負けて海南島からいなくなったが、そのとき日本軍を殺す機会がなくなったことが悔しかった。日本兵を恨みつづけてきた」
と話しました。
朱開琨さん(1935年生)
朱五弟さん(1937年生)
 

李建栄さん(1938年生)
 李建栄(リ・ジェンロン Li-Jianrong)さんは、当時6歳でしたが、父親を日本刀で切り殺した日本兵の顔を覚えているといいます。
 その日本兵は唇のうえに髭をはやしていたそうです。
 「お父さんを殺すな」と叫んだ小さな李建栄さんは、日本兵に切りつけられ、父親のそばに倒れこんで気を失ったそうです。
 4日後、重傷を負わされた父親の李家昌(リ・ジァチャンLi-Jiachang)さんは亡くなりました。  
李玉菊さん(1933年生)
あの家の中で、父と母が殺された。
 父の李家勝は56歳、母は55歳だった
李全治さん(1938年生)


傷跡を示す李全治さん
 

「要求日本国政府賠償請願書」

要求日本国政府賠償請願書
請願書全文
 1994年4月1日に、月塘村の全村民は、日本国政府に賠償を要求することを中華人民共和国外交部に求める文書をだしました。

その文書には、こう書かれています。

 1945年5月2日(中国農歴乙酉年3月21日)、万寧県万城(ワンチョン Wancheng)の日本軍部隊は、理由なくわれわれ月塘村を襲った。罪のない村民286人が殺傷された。そのうち、現場で死んだ者およびそのときの傷が直らないで死亡した者は256人であり、傷つけられながらも生き残った者のうち、いまも健在な者は18人である。 この日、日本軍は、月塘村の家70軒を焼き、多くの牛などの財産を強奪した。
 日本軍は、われわれ月塘村の100以上の家庭から親しい家族を失わせるという苦痛をあたえ、われわれ月塘村村民に、ことばでは言い表すことのできない肉体的精神的物質的損失をもたらした。
 49年が過ぎたが、われわれ、罪のない被害者に誰も責任をとろうとしていないことに対して、われわれはこころから憤慨し、日本政府に厳正につぎことを要求する。

1、われわれ月塘村村民に対し、国際社会に公開で謝罪せよ。
2、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
3、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
4、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。

 日本軍がひき起こした月塘村虐殺にかんするわれわれ月塘村村民の要求に対して、日本国政府が具体的に回答することを希望する。そうしないことによって生ずるいっさいの問題の責任は、すべて日本政府が負わなければならない。
 
   

月塘惨案受害者登記表(部分)
  「一屍二命」と書かれている

  
月塘惨案受害者登記表全文表示
表一 表二 表三 表四
 要求日本国政府賠償請願書に付けられている月塘惨案受害者登記表には、256人の犠牲者と30人の「幸存者」の名が記されています。

 1945年5月2日の朝、まだ暗いうちに月塘村を襲った日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵たちは、わずか4時間ほどの間に、  1歳の幼児1人、2歳の幼児6人、3歳の幼児7人、4歳の幼児4人、5歳の幼児3人、6歳の少年・少女4人、7歳の少年・少女2人、8歳の少年・少女5人、  9歳の少年・少女5人、10歳の少年・少女9人をふくむ村民256人を殺しました。
 朱開洪(ジュ・カイホン Zhu-Kaihong)さんの妻で19歳だった女性と朱鴻周(ジュ・ホンジョウ Zhu-Hongzhou)さんの妻で25歳だった女性は、  妊娠しており、胎児も殺されました。「一屍二命」(一体のしかばねに二つのいのち)と書かれています。
 朱学雲(ジュ・シュェユン Zhu-Xueyun)さんの家では、1家9人のうち、父、妻、娘、弟、弟の妻、妹、姪の7人が殺されました。  父朱開世(ジュ・カイシー Zhu-Kaishi)さんは52歳、妻は24歳、娘の朱亜燕(ジュ・ヤーイェン Zhu-Yayan)さんは5歳、弟の朱学琨  (ジュ・シュェクン Zhu-Xuekun)さんは26歳、弟の妻は24歳、妹の朱和妹(ジュ・ホーメイ Zhu-Hemei)さんは3歳、姪の朱亜妹(ジュ・ヤーメイ Zhu-Yamei)さんも3歳でした。  生き残ったのは朱学雲さんと母親だけでした。朱学雲さんはあまりの悲しさにこころを病み、まもなく亡くなったそうです。
 

追悼碑の建立を

 

2007年5月24日
 月塘村集会場で
月塘村追悼碑建設についての話し合い
 月塘村では、月塘村惨案犠牲者を追悼する碑の建設が試みられてきましたが、これまで実現していませんでした。
 2007年5月24日、月塘村集会場で、月塘村追悼碑建立について話し合いがおこなわれました。
 1945年5月2日に虐殺された犠牲者を追悼する碑を建立することと、日本政府に月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、 謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させることは、つながっています。
 本会では、追悼碑建設のための募金活動を行い、2008年4月26日に追悼碑が完成しました。  追悼碑建立
 
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