向かって右に月塘村がある |
朱進春さん 朱進春さんは、日本刀で8か所傷つけられたが、生き残ることができた。 |
朱学平さん(1933年生)日本軍が襲撃したのむかしの家の跡を示す朱学平さん |
朱学平さん
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自宅の中庭で話す朱建華さん(1944年生) 朱建華(ジュ・ジェンホァ Zhu-Jianhua)さんは、当時、生後8か月で、お母さんが抱いてかばってくれたそうです。
お母さんも朱建華さんも刺されながらも命を奪われませんでしたが、4歳の兄は刺され、即死したそうです。
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日本軍が襲った家の跡で証言する朱光清さん(1934年生) 朱光清(ジュ・グァンチン Zhu-Guangqing)さんの家を日本軍が襲ったとき、まだ、陽はのぼっていなかったといいます。
その家のあった場所で、朱光清さんは、 |
朱進春さん(1937年生) |
朱学超さん(当時3か月) 朱学超(ジュ・シュェチャォ Zhu-Xuechao)さんは、下腹部を刺され、
睾丸をひとつ切り取られたそうです。
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祖母と3番目の伯母が殺された家の跡で話す朱秀容さん(1936年生) 朱秀容(ジュ・シュゥロン Zhu-Xiurong)さんは、
「あの日、日本軍は、祖母と3番目の伯母と、わたしと、もう一人の4人をつかまえ、銃をつきつけて並ばせ、
お辞儀をさせた。日本軍は、ひざまずいた祖母の首を切った。3番目の伯母が殺される瞬間、わたしは逃げた。
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朱開琨さん(1935年生)朱五弟さん(1937年生) |
李建栄さん(1938年生) 李建栄(リ・ジェンロン Li-Jianrong)さんは、当時6歳でしたが、父親を日本刀で切り殺した日本兵の顔を覚えているといいます。
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李玉菊さん(1933年生)あの家の中で、父と母が殺された。
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李全治さん(1938年生) |
要求日本国政府賠償請願書請願書全文 |
1994年4月1日に、月塘村の全村民は、日本国政府に賠償を要求することを中華人民共和国外交部に求める文書をだしました。 |
月塘惨案受害者登記表(部分) |
要求日本国政府賠償請願書に付けられている月塘惨案受害者登記表には、256人の犠牲者と30人の「幸存者」の名が記されています。 |
2007年5月24日
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月塘村では、月塘村惨案犠牲者を追悼する碑の建設が試みられてきましたが、これまで実現していませんでした。
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1945年5月2日に虐殺された犠牲者を追悼する碑を建立することと、日本政府に月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、
謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させることは、つながっています。
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